
「吾輩は蚤(のみ)である。吾輩は生れた、とにかく生れたーところがいつ、どこで、どんなぐあいでとなると、とんと見当もつかない。なにはともあれ、読者諸賢の信をまつほかはなかろう。ただ申せることは、吾輩出生の事実も、これより述べる回想録の真実性も、ともに厳然たるものであることである。」(富士見ロマン文庫「吾輩は蚤である」より)
古今東西、好色文学の世界には匿名作家によって書かれた作品が数多く存在するが、今回取り上げる「吾輩は蚤(のみ)である」(原題は「蚤の自叙伝」)は傑作であるにもかかわらず、最初から作者名不祥のまま世に出たという作品である(1877年にロンドンで発行されたというのが有力説)。内容はタイトルが示す通り、一人の少女の体に住みついた蚤(これに人間同様の知恵が与えられている)の眼を通して、男女愛欲の諸相を綿密に描写したものである。なるほど蚤や虱(しらみ)といったような極小の生物にわが身を仮託しての女体探検(そういえば昔、「女体探検」と題する裏ビデオがあったことをふと思い出した)の妄想はそれだけでも血沸き肉躍るほど楽しいものであるが、この作品の真価はそうした好色的部分よりも、「天真爛漫な少女を飽くなき快楽のエキスパートに仕立てあげる聖職者を始め、欺瞞にみちた俗物紳士の背徳を蚤の眼をとおして痛烈に諷刺する。」と表紙折り返しのキャッチコピーにある通り、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」などとも通底する優れた諷刺小説としても読むことができる点であろう。
ところで「吾輩は蚤である」というタイトルを聞いて、まず誰もが真っ先に連想するのは文豪漱石の言わずと知れた、あの諷刺小説のことではなかろうか。実はこの本の訳者(江藤潔)も解説文の中で、この作品と漱石との因縁浅からぬ関係について多くの言葉を費やしている。では最後にその部分を紹介しておくことにしよう。
「ところでわが国の文人で最初にこれを繙(ひもと)いたのは夏目漱石であるという説が、近年かまびすしい。根拠とするところは『吾輩は猫である』のジャンルである。その可能性はきわめて大で、一九〇〇年ロンドン留学という時期から考えても、また、由来わが国の文人にしてポルノグラフィに興味を抱かざる者の稀なことより推してみても、当然漱石が異郷の憂いを『蚤』などで散じたものと思われる。ひょっとすると、こんどは夢で胡蝶ならぬ猫になったのかも知れない。しかし、やがて千円札に肖像が載るくらいの文人であるから、『猫』は人間五欲のうち色欲だけには眼をつぶったのであろう。その選択が是か非かは批評家に委ねるが、私見を申せば『猫』をして金田家の天井裏あたりから色情場面を覗かせれば、かの名作の瑕瑾(かきん)とも言えるキザな感じを、いくぶんでも和らげられたのではないか。
いずれにせよ、漱石が『蚤』にアイデアを得たのはほぼ間違いないところである。その書き出しはもちろん、結末において、共に人間の醜さに愛想をつかし、片やナムアミダブツと沈没し、こなたピョンピョンと何処かへ退散移住である。蚤も猫もその生存を人にたのむ生物で、ことに蚤はノラ猫あれどもノラ蚤なしという全面依頼型である。かかる寄生生物にも嫌悪を催さしめるほど、人間五欲の迷いは浅ましいとするところに、両者の主張の渾然一致が認められる。」
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