社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係に
おいて、差別されない。」
↑は言うまでもなく「日本国憲法」(第3章・第14条)に
記された文言であるが、ここ数年だけを見ても、政治家による
様々な差別発言が問題化したりと、今なお差別の問題は一向に
解消する気配がない。評論家の斉藤美奈子さんはその著書「物
は言いよう」(平凡社)の中で、「政治家のセクハラ発言が有
意義なのは、政治家特有の発言だからではない。歴史認識発言
などとちがい、だれもが知らず知らず口にしているかもしれな
いせりふを、彼らがかわっていってくれるからである。そこら
のおっさんだったら『ったく、しょーがねえな』で終わるとこ
ろを、政治家であったがために問題発言として表ざたになる。
すなわち『さらし者効果』である。実際、それがニュースとし
て報道されることで『これがセクハラ発言になるのか』とはじ
めて知る向きもあるのではないか。そのPR効果はけっして小
さくない。」と書いているが、確かに差別意識というのは何も
政治家だけの専売特許ではない。ある意味では我々の誰もが何
らかの形で差別に加担しているといってもいいのではないか。
というわけで今回は差別の問題を考えるにあたって、かつて私
に最も大きなヒントを与えてくれた論考を一つ紹介することに
したい。それは岸田秀氏の著書「二番煎じ・ものぐさ精神分析」
(青土社)に収められた「価値について」と題された論文である。
以下、この論文の中で特に重要と思われる箇所を抜き書きしてみ
ることにする。
「そもそも人間がそのために生きるに値する価値なんかあり
っこない。そんなことは、ちょっと考えればわかることである。
人類がこの地球上に存在しているということそれ自体が、そも
そも価値のないことである。もしあるとすれば、誰が人類にそ
のような価値を与えたのか、どこからそれは降ってわいてきた
のか。もし人類にそのような価値があるとすれば、猫にもそれ
はあるのか。蛆虫にもそれはあるのか。もし人類にあって、猫
や蛆虫にないとすれば、どこにその違いの根拠があるのか。逆
にもし、猫や蛆虫にもあるとすれば、人類、猫、蛆虫に共通な
価値の根拠はどこにあるのか。それともまた、たとえば人類の
価値の方が猫の価値より高いとうような、価値の高低があるの
か。もしあるとすれば、その根拠は何か。要するに、価値とい
うものも、わたしに言わせれば、例によって例のごとくいつも
のことながら、人間の勝手な幻想に過ぎないのである。」
「ある価値を信じているからこそ、人間は他人の生命、幸福
はおろか、自分の生命、幸福さえ軽んじることになるのである。
特攻隊員たちは、大日本帝国の悠久の大義とやらのために、身
を鴻毛の軽きに比して死んでいった。彼らを死に駆り立てた司
令官たちだって、自分もその大義の価値を信じていたからこそ、
そうできたのであって、そうでなければ、とても恐ろしくてそ
んなことはできなかったであろう。アメリカ軍は、アメリカ的
自由と民主主義とやらのために、敵国の非戦闘員にまで残虐の
限りを尽した。ドイツ軍は、アーリア民族の純血とやらのため
に、六百万人のユダヤ人を殺した。こういうことはすべて、あ
る価値を信じている人にしてはじめてやれることである。」
「ある価値体系ができあがれば、必然的にあるものは価値の
劣ったもの、無価値なものにならざるを得ないから、どのよう
な価値にせよ、ある価値を信じている者は必然的に誰かを軽蔑
するようになる。金の価値を信じている金持ちは貧乏人を軽蔑
する。『進歩』の価値を信じているいわゆる文明人はいわゆる
未開人を軽蔑する。白人の血の価値を信じている白人は黒人や
アジア人を軽蔑する。日本民族の血の価値を信じている日本人
は朝鮮人を軽蔑する。男性的価値を信じている男は女を軽蔑す
る。ある理想の価値を信じている人は、その理想をともにしな
い人を軽蔑する。いずれにせよ、価値というものを信じる人び
との態度が改まらないかぎりは、差別の問題は解決しないであ
ろう。
そのような軽蔑は、しばしば自分自身にも向けられる。人間
は価値のために生きており、価値のない人生は生きるに値しな
いという根強い先入観があるから、たとえば資産を失った金持
ちは、貧乏人から見ればまだかなりの資産を残していても、自
分自身の無価値感と絶望から自殺したりする。大日本帝国の価
値を信じていた軍国主義者は、敗戦によってその価値の幻想性
が暴かれると、腹でも切らざるを得なくなった。いずれにせよ、
いかなる価値も幻想だから、価値というものを信じているかぎ
り、そのような危険はつねに存在するのである。」
ここで最も重要なのは「人類がこの地球上に存在していると
いうことそれ自体が、そもそも価値のないことである。」とい
う点で、つまり「人間はみな等しく価値がある。」のではなく、
「人間はみな等しく価値がない。」ということをしっかり弁え
ておくことこそが必要であるということだろう。こういうとす
ぐに、ならば殺人や自殺は許されるのかといった突っ込みが予
想されるけれども、これこそ「価値のない者は生きる権利がな
い」という価値幻想に捉われた傲慢な先入観でしかない。人間
以外の生物、例えば蛆虫にしろ、ごきぶりにしろ、必死で生き
ていることに変わりはないが、では彼らは自分が生きることに
何か価値があると信じて生きているのであろうか。それならそ
の価値とやらを見失った時には自殺という行動が見られてもお
かしくないが、蛆虫やごきぶりが自殺したという話は寡聞にし
て聞いたことがない。
岸田秀氏はここで「ある価値を信じている者は必然的に誰か
を軽蔑するようになる。」として、いくつかの例を上げている
が、ちょっと想像しただけでもこういう例はいくらでも思い浮
かぶ。たとえば、若さの価値を信じている者は、高齢者を差別
する。美という価値を信じている者は美しくない(と彼らが看
做した)者を差別する。清潔という価値を信じている者は不潔
な(と彼らが看做した)者を差別する。愛の価値を信じている
者は「愛がない」(と彼らが看做した)者を差別する。ノーマ
ルなセックスの価値を信じている者は性倒錯者を差別する。恋
愛の価値を信じている者は恋愛しない者を差別する。妊娠、出
産、子育ての価値を信じている者は子供を産まない女性を差別
する(柳沢大臣の「女性は産む機械」発言など)。国歌や国旗
の価値を信じている者はそれらに敬意を表さない者を差別する。
性的魅力の価値を信じている者は性的魅力がない(と彼らが看
做した)者を差別する。学歴の価値を信じている者は低学歴者
を差別する。結婚の価値を信じている者は独身者を差別する。
あ〜我々が蛆虫やごきぶりを見習って一切の価値と無縁に生
きられるようになる日はいつになったら訪れるのであろうか!
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Stop! Global Warming ~ Yahoo! JAPAN Earth Project
http://pr.mail.yahoo.co.jp/earthproject/


>「人間はみな等しく価値がない。
これは面白い。ゾクゾクします。
でも、言葉を持ってしまった人間は、なかなかそこには至りませんね。では、どうするか。
まず、オノレがいかに「いい加減」で「根拠」がなく、必然的に差別を生む価値に支配されているかを「自覚」する。
なぜ「価値に支配」されているか「思索」する。
でしょうか?
うーん、どうもこういうエントリーには、ワクワクさせられるなぁ(笑)。
>これは面白い。ゾクゾクします。
こういうdr.stoneflyさんの感性には物凄く通じ合うものを感じてしまいますな。「人類がこの地球上に存在しているということそれ自体が、そもそも価値のないことである。」、この前提に立つ限りすべての差別には意味がないことになってしまうわけですが、どうも最近の地球環境破壊の激しさなんかを見ると、この言葉には単に差別否定のためのレトリック以上のリアリティを感じざるを得ません。人間が自我や言葉を持ってしまった以上、何らかの価値にすがらざるを得ないのだとしても、それは人間の高等性の証しであるどころか劣等性の証しであるくらいの認識は持っていたいものですな。いや待てよ、高等性、劣等性という判断自体がそもそも一つの価値判断でしたっけ(爆!)
人間と言うのはつきつめると「自分のために存在している」と考えれば存在自体に対する価値も生じるのだろうか・・・(禅問答みたいですな)
>我思う、故に我あり
この場合の「我」がなかなかくせ者でして、これが正確に現実の「我」を捉えたものであるという保証はどこにもないわけです。なのでこの命題は「我幻想す、故に我あり」とか「我妄想す、故に我あり」と置き換えてもいいのではないかと。
>「自分のために存在している」と考えれば存在自体に対する価値も生じるのだろうか
いかなる価値を信じる場合でも、結局のところそれは自分の不安定な自我を少しでも安定させるためでしかないということを認識することは大事かも知れませんね。そうすればある価値を信じるということに恥ずかしさや後ろめたさが伴うことになり、そのことが多少なりとも差別のブレーキになるのではないかと。