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サブカル雑食手帳

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2009年06月02日

辻潤「浮浪漫語」を読む

 前回に続き、またしてもダダイズムがらみの話になってしま
うが、但し、時代は大正まで溯って、今回は辻潤についてであ
る。辻潤といえば、妻であった伊藤野枝(雑誌「青鞜」の主力
として活躍)をかねてから親交のあったアナキスト大杉栄に奪
われ、その後は虚無僧姿に身をやつし、幼い息子を連れて尺八
を吹きながら全国各地を放浪して歩いた、というエピソードは
有名(吉永小百合が与謝野晶子に扮した東映映画「華の乱」の
中でも虚無僧姿で放浪する辻潤が描かれていた)であるが、そ
の著書については一度は読んでみたいと思いつつもなぜかこれ
まで目にする機会がなかったのだった。ところが先日、たまた
ま市の図書館で、「日本の名随筆・別冊96・大正」(作品社)
という本の中に辻の「浮浪漫語」というエッセイが収められて
いるのを発見、おかげでやっと長年の念願が叶ったというわけ
であるが、さてその結果はどうだったかと言えば、やや肩透か
しの感なきにしもあらず、なのである。

 「自分は何よりもまず無精者だ。面倒くさがりやである。常
に『無為無作』を夢みている。従ってこれまで自分で進んで自
分を表現(文字をかりて)しようとしたことは殆どないといっ
てもいい。まったく今の世の生活には不適当に出来あがってい
る人間であることをしみじみと感じさせられる。よしまた自分
を表現しようという欲望が偶々起こって来たところでそれは到
底今の社会制度の下では許されそうもないことばかりだ。つま
り今の世の中、少なくとも自分の生活している世の中には言論
の自由がないようだ。そう思うと自分はスグと嫌気がさしてく
る。それに無理にもそれをシャベらなければならないという程
のパッションが起こって来ないから、そのまま抑えつけて黙っ
てしまったことになる。同じ人間でありながら、お互いに思っ
ていることを充分いうことさえ出来ないとはなんという窮屈な
世の中だろう。近頃ではあまりいわれないようだが、しとしき
り、『危険思想』という言葉が大分流行した。自分には今もっ
てその言葉のわけがよく呑み込めないでいる。そして自分の低
能を自ら憐れんでいる。」

 これは書き出しの部分であるが、確かにこの文章には読む者
を引き込んでしまうに足る牽引力がある。この後、「僕は時々
出来るなら国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある。
つまりどこの国の人間にもなりたくないのだ。自分以外になん
らのオーソリティなしに暮らしたいのだ。」という文章が続き、
自らの浮浪への衝動が延々と語られる。このあたりは実にアナー
キーで、いい感じである。私がズッコケたのは、最後の方の次
の文章を読んだ時だった。

 「僕は省みて自分が何一ツ持たない人間だということを痛切
に感じる。名誉も地位も財産も、知識も腕力も美貌も技能もな
んにもない男だーそれでもせめて年でも若いなら未だしも、も
はや不惑の年に手が届きそうになっている。それにも拘わらず
なお一ツ若く美しくやさしい女性の愛を(しかも全部の)要求
しているのだ。ーなる程無理かも知れない、出来ない相談かも
知れない。しかし僕はそういう女性を見出すまでは頭髪がこと
ごとく白くなり、顔面が皺苦茶になり、身体が痩せさらばえる
までこの地上を七転八倒しながら、呻吟(うめ)き苦しみなが
らのた打ちまわって浮浪しようと思うー恐らくそのような女性
の片鱗をさえ仰ぐことが出来ずにどこかの野末か陋巷に野垂死
をすることになるだろうーそうなったらそれまでの話である。
死んでから先のことは今から考えても追いつかない。
 もしそんな女性を発見し得たなら、どんな苛酷ないわゆる資
本主義制度の中ででも、どんな残酷な国家制度? の下ででも、
どんな不自由な窮屈な目に遇わされてでも自分はそれらの一切
を耐え忍んで幸福に生き得られると思う。あるいは自分達の愛
の生活が充ち溢れて、まるでそんなことを意識することさえ不
可能になるかも知れない。そんなことを考える余裕さえなくな
るかも知れない。」

 いやはやこれはまた何というナイーブな純愛メロドラマ信仰
であろうか。辻はこの後に続く文章で、これが身分不相応な妄
想であることは重々承知の上である、みたいなことを書いてい
るのだが、私が引っ掛かったのは、この妄想が身分不相応であ
るとか、現実離れしているとかいったことではなく、それがあ
まりにも陳腐でステロタイプなことである。これまで私は、野
枝をめぐる大杉との一件について、辻に同情的な気持ちを禁じ
得なかったのであるが、これを読んでしまうと、「こりゃ野枝
が逃げ出すのもむべなるかな、じゃないか」ってな気持ちになっ
てしまうのである。勿論、ダダイストであれ、アナキストであれ、
バーチャルの世界でどんな青くさい妄想に浸ろうと完全に自由で
あり、それについて非難すべき筋合いは全くない。勝手に読んで
おきながら(それもタダで)、つまらないなどとケチをつけられ
たら辻の方も迷惑千万に違いないだろう。もしかしたら、こうし
た白樺派的純愛メロドラマ信仰こそが大正という時代を支配して
いた時代精神だったのかも知れないのだから。












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posted by 下等遊民 at 08:04| Comment(5) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ダダをこねる、というからダダイストって幼児性があるってことですかね。(違うだろう、おい)
Posted by kuroneko at 2009年06月03日 09:27
 >kuroneko様

 >違うだろう、おい

 いやマジにこれが最も近い線ではないかと。もともとdadaはフランス語で幼児語の「お馬ちゃん」を意味するらしいんですが、どうせ無意味を志向(これ自体、矛盾した表現ですが)する運動なんだから名称なんて何でもいいや、って感じで、「ダーツの旅」よろしく、トリスタン・ツァラが辞書にナイフを突き刺したところ、丁度当ったのがこの言葉だったとか。まあしかし、この運動の性質を考えると、これはあまりに出来過ぎた話なんで、もしかすると後ででっち上げたものかも知れませんが。

 アナーキズム=穴開きズム、なんてのはどうですかね。理論的に綻びだらけという意味で。

 私の場合は最近本代をケチって専ら図書館を利用してるんで、タダイズムですな。
Posted by 下等遊民 at 2009年06月03日 20:08
>タダイズム

わたしは、いまだに時期はきていないんじゃないか、という永遠の待機主義で「マダイズム」ですかね。
Posted by at 2009年06月03日 22:14
名前忘れちゃった。
Posted by kuroneko at 2009年06月03日 22:15
 >kuroneko様

 >いまだに時期はきていないんじゃないか、という永遠の待機主義

 これ、何の時期なのか特定できないところがミソですよね。永遠の待機主義というと、どうしてもベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」をイメージしちゃいますね。二人の浮浪者が、「そのうちゴドーはきっと現れるさ」といいながら、永遠にゴドーを待ち続けるという例の不条理演劇。最後までゴドーが何なのかもわからない。モチーフとしては面白いけれども、観客として長時間舞台を見続けるのはしんどそうだなあ。

 
Posted by 下等遊民 at 2009年06月04日 00:05
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