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サブカル雑食手帳

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2009年06月04日

アナロジーとしての共産主義

 なにかどえらく大袈裟なタイトルになってしまったが、別に
小難かしい体制論議をやろうというわけではないので念のため。
今回、取り上げようと思うのは、かつて共産主義及び原始共産
制という語をあくまでもアナロジーとして用いながら、これら
の言葉にもの凄くリアリティを感じさせてくれた2冊の本であ
る。まず一冊目はフランスの作家セリーヌの「夜の果ての旅」
(生田耕作訳・中公文庫)という本。この上巻の中に出てくる
「ウンコの陽気な共産主義」という表現がまことに秀逸なので
あるが、「夜の果ての旅」本文の方だと長くなるので、山田稔
著「スカトロジア」(福武文庫)の中から、これを要約した部
分を引いてみよう。

 「たとえばセリーヌの『夜の果ての旅』には、ニューヨーク
のマンハッタンの共同便所の描写が出てくる。そこは地下になっ
ていて、臭気ふんぷんたるなかで、男たちがみんなの目の前で
顔を真っ赤にして、『野蛮な音』とともにウンコをしているの
である。彼らはたがいに冗談をとばしあいながら、上機嫌で排
泄を楽しみ、順番を待つ連中は、あちこちの便所を訪ねてだべっ
たり、糞づまりの男にかけ声をかけたりしている。水のほとば
しる音がすると、その空いた穴に人々が殺到し、銭投げまでし
て順をきめるしまつである。『この内輪同士の行儀の悪さ、は
らわた同士の驚くべきなれなれしさと、路上でのあの完璧な抑
制ぶり』に主人公は唖然とすると同時に、そこに『ウンコの陽
気な共産主義』を発見するのだ。」

 これは「アナロジーとしての共産主義」であると同時に「スカ
トロジーとしての共産主義」でもあるわけだ。かなりリアル。

 さて、もう一冊は劇作家・鴻上尚史氏のエッセイ集「ドン・
キホーテのペディキュア」(扶桑社)という本である。氏はこ
のエッセイ集に収められた「一人のエッチ本はみんなのために」
というエッセイの中で、自分が予備校時代にいた寮の思い出話
を語っているのだが、それによると、寮生の一人がエロ本を買っ
て帰ってくると、買ってきた本人の意向とは関係なく、ジャン
ケンが始まり、それに勝った奴が、「いちばーん!」と雄叫び
を上げて、「へっへっへっ、処女でんなあ」と金持ちの旦那み
たいな顔をして、エロ本を自室に持ち去ってしまうというので
ある。数分して、ジャンケンに勝った奴が帰ってくると、次に
ジャンケンに勝った奴が、またそれを自室に持ち去るという具
合。そして氏はこうした寮のあり方を次のように総括している
のである。

「誰の部屋の中にも、エッチ系の雑誌(簡単にいうとエロ本)
が溢れていて、想像力を刺激しなくなった本は、さかんに流通
していました。原始共産制の見本のような素晴らしい寮でした。
エロ本は、みんなの物だという原則が確立していたのです。一人
のエロ本はみんなのために、みんなのエロ本は一人のために、
というヒューマンな原則があったのです。」

 ちなみにこの寮には80人も寮生がいたそうであるが、その
数を考えると、「誰の部屋の中にも、エッチ系の雑誌(簡単に
いうとエロ本)が溢れていて、」というのはちょっと驚くべき
事態ではある。と言うのも、私の経験から言うと、いくら二十
歳前後といっても、部屋にエロ本が一冊もないという奴も少な
からず存在していたからである。まあそれはともかくとして、
ここに出てくる原始共産制は、私にとってルソーの「人間不平
等起源論」でのそれよりも遥かにリアリティを感じさせてくれ
たことだけは確かである。



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posted by 下等遊民 at 23:35| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はしたなくも、じゃないや。はしなくも「共産制」のアナロジーで、「糞する人々」や「エロ本共同体」が表現されるわけですが、この二つの例は微妙に違うといえば違いますね。

スカトロジーのほうは、誰でも排泄行為はするので、生理的普遍による「共産的」な光景でしょう。
エロ本のほうは、若い男の性欲という普遍はあるとしても、そこには身体性より、エロ本という物、物でもあるけど「情報」が介在する。
けしからん想像ながら、生身の女の子を寮に連れてきた学生がいたとしたら、じゃんけんで順番決めてエッチ、というわけにはいかなかったでしょう。そこで熾烈な闘争と女子に相手にされる、されないという階級が生まれて、共産制にはならなかったのではないかしらん。

共産制の平等は、何を配分するかによって、自らが規定しなおされるのではないか。
直接的な生理の平等を満たすために、財を分配するとしても、そこにはすでに偏差が生まれ始めるかなあ、とも思います。
あたし、統制経済になって、タバコの配給されたら、ほかのものと交換しようと思いますからね。
Posted by kuroneko at 2009年06月05日 16:10
 >kuroneko様

 確かに、「排泄共同体」と「エロ本共同体」では、「価値観の介在」という点で微妙に異なりますよね。にもかかわらず、「排泄の快楽」と「エロ本の快楽」の間には、いわゆる「能力」(エロ本の場合のイマジネーションは別として)に左右されずに享受できるという共通項もある。仰るように、もし仮に誰かが生身の女性をこの寮に連れてきたとすれば、にわかに恋愛スキルの有無による「格差社会」がそこに発生した可能性もあり得るわけです。ひょっとするとそれでもなお且つ「エロ本共同体」的平和を維持しようとしたのが、早稲田スーフリとやらによる集団暴行だったという見方もできるかも知れない。そう考えると、自民党太田誠一議員の「元気があっていい」発言は単に政治家としてけしからんというだけでなく、あの事件が男子学生に恋愛スキルを競うだけの「元気がなくなった」結果であるという本質を理解していない発言でもあったわけですね。実はこのエッセイにはもう一つのエピソードがあって、それは鴻上氏が特別気に入っていた、にっかつのポルノアイドル泉じゅんの写真集を誰かに盗まれて最後まで犯人がわからずじまいだったという話なんです。それにしてもエロ本が疑似人格化した途端、私有財産が発生するというのは考えさせられるものがありますよね〜。

Posted by 下等遊民 at 2009年06月05日 20:54
スカトロで思い出したんですが、先日放送されていた、志村けんのコント番組の中で、榎本明と志村けんが年増の芸者に扮するコントがあり、若い芸者がスカルプ・ネイルを付けているのを見て、「何よその爪」と聞くと、若い芸者が「スカルプです」と答えるシーンがありました。問題はこの直後の志村けんのセリフで、なんと「スカトロ?」と聞き返します。(恐らくはアドリブ)
これに反応して榎本明が「スカトロったらあんた、大きい声では言えないけど・・・」と言う展開となりました。思わず「コイツらスカトロ好きでうは」と思ってしまったシーンでした。
話が脱線しましたが、「エロ本共同体」はいいですね。ワタシらも高校時代はエロ本の貸し借りを良くやりましたっけ。ま〜エロ本自体がそう頻繁に買える経済状態じゃなかったせいもありますが。(その反動で、社会人になってからビニ本を買いまくった)
Posted by wakuwaku1776 at 2009年06月05日 23:41
 >wakuwaku1776様

 ほ〜、そんな傑作なコントがあったんですか。お笑いでいわゆる「排泄ネタ」(かつての加藤茶の「ウンコ、ちんちん」もそうですが)というのは珍しくないですが、どうも「スカトロ」の語感にはお笑いと馴染みにくいある種の学術っぽさがあるのではないでしょうか。「スカトロ」がお笑いで使えるとなれば、例えば寿司屋のシーンで「大将、スカトロ握って」なんてのもいいかも知れませんね。
 で、エロ本共同体ですが、鴻上尚史氏は1958年生まれなので、この思い出話はおそらく1977年頃のことではないかと推定されます。そうするとまだビニ本なるものは存在しておらず、いわゆる自販機本がエロ本の主流だった頃ではないかと。自販機本というのはエロ雑誌の歴史の中でもちょっと異色の存在で、製作サイドに全共闘くずれのお兄さんたちがどっと入りこんでいたせいかおしなべてサブカル臭の強いものが多かった。もしかするとこのあたりも鴻上氏の劇作
家としての感性育成に寄与したのではないか。
Posted by 下等遊民 at 2009年06月06日 01:58
 >wakuwaku1776様

 書き忘れたことが一つ。不謹慎ながら、鴻上尚史氏の話でジャンケンに勝った奴が、「へっへっへっ、処女でんなあ」と金持ちの旦那みたいな顔をして、エロ本を自室に持ち去ってしまうというところで、もしそのエロ本が「超熟ラプソディー」(もちろんこの当時はまだ出ていませんでしたが)だったとしたら、どうだっただろうか、なんてふと想像しちゃいました。
Posted by 下等遊民 at 2009年06月06日 02:32
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