かつて吉本隆明は、三島由紀夫への追悼文(1970年11月25日に,三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自決した直後に書かれたもので、現在は、ちくま文庫「追悼私記」の中に収録されている)の中で、次のように書いていた。
「サルトルを研究すればサルトルにかぶれ、メルロオ=ポンティを研究すればメルロオ=ポンティにかぶれる。毛沢東を研究すれば、毛沢東にかぶれる。そしてもしかすると、天皇制を研究すれば天皇制にかぶれる。サドを研究すればサディズムにかぶれ、バタイユをよめば<死>と<エロス>のつながりとやらにかぶれる。これは<空間>的なかぶれである。
したがって<時間>的かぶれというのもある。古代を研究すれば古代主義にかぶれ、武士道を研究すれば<サムライ>にかぶれて、比喩でもなんでもなく<サムライ>気取りになる。これこそが日本の文化的悲喜劇である。
ところで、人間的悲喜劇というのもある。肉体を鍛練すれば肉体主義にかぶれ、武器をもてあそべば武装主義にかぶれる。そのあげく<自衛隊>などに肯定、否定にかかわらず過剰な意味をつける。なるほどそれは巨きな武装力をもち、いつでも<命令一下>武器を爆発してわたしたちをも、仮装敵国をも殺りくできる存在である。しかし、武器をもてあそび、それに至上の価値を与える者ほど<人形>にすぎない、ということを忘れるべきではない。それらは<命令一下>どんなもったいないほど税金をしぼってつくった武器でも、屑鉄のように捨ててしまえる存在である。」
失礼ながら、最近の吉本隆明からは想像もつかないほど冴え切った文章だが、極言すれば、吉本隆明にこんな文章を書かせてしまうほどに、この当時は「みんな何かにかぶれていた」時代だったということなのかも知れない。
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