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サブカル雑食手帳

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2006年04月02日

(資料・2)天皇裕仁と作家三島由紀夫の幸福な死(2)

           
           (2)

 六十九歳の誕生日を迎えて間もない天皇裕仁は、六月にしては珍しく青い硬玉のように堅く美しく、晴れたその日、千代田城内の吹上御苑をいつものように散策していた。
 十七世紀、寛永の初め頃に成った、十万余坪のこの庭園は、かつてはそのまま広大な自然の武蔵野であった。しかし軍部や宮内省その他の政治屋たちが、彼を雲の上人(うえびと)として人目の届かぬところへ奉り上げ、或る日突然、やはり生身の人間であったとして地上へつき落し、近頃となって又もやどうも神の血筋らしく見せた方が都合がよさそうだと、昔の高処へかつぎ上げることを始めたその過程で、次第によく手入され庭園として整えられるようになった。しかし何分にも広いのと、
裕仁の希望も少しは容れてやりたい宮内庁の態度によって、東側の瓢池(ひさごいけ)をめぐる彼の気に入りの散歩道あたりは、野草や樹木が生い茂り、雉子や鷺やそのほかの野鳥たちが自由に群れ遊ぶ別天地として、残されていた。
 十数世紀にわたって世襲という鎖につながれて肉親同士の咬み合いと反目を強いられ、その時々の実権を握る者に飼いならされたあげく、臆病でお人好しになっている天皇の裔(すえ)裕仁にとって、わずかに人間らしい日々の自由は、親切そうだがうるさい従者内舎人(うどねり)からさえ解放されて、この庭をひとり歩く時にあった。
 数日来の好天気で乾いた草むらの中で、数羽の雉子が砂あびをするのを眺めた後、裕仁はぬるでの木にクスサンの幼虫が居るのを見つけて近づいた。別名白髪太郎と呼ばれるこの大型の蛾の幼虫は、殆んど生長し切って、繭を作る前の旺盛な食欲を示していた。親指ほどある黄緑色の体にふさふさした白い毛をいちめんに生やした姿は、女官たちにとっては悲鳴をあげる対象だったが、裕仁の目はじかにその生命現象を見るのだから、むしろ厚化粧した女官などよりこの毛虫の方がずっと可愛いいのである。第一この虫はそらぞらしい儀礼的な微笑を浮べながら、

 「お上(かみ)には、御きげんよろしう・・・・・」

 などと決して言わない。
 皇太子の頃は、何とかして侍従や警官が居ず、且つ衆目のない所を自分の思うままに独り歩きしてみたいと、常に熱望し、即位してからは天皇という身分のために、母や弟の死に目にも逢えぬ重臣どもの形式主義に泣かされ、戦後の民主主義のお祭騒ぎにも、選挙権という飴玉すら与えられなかった裕仁は、今はすっかり諦め老いこんで、ただひたすら人間に遠い生物と接することに喜びを見出していた。ショウジョウエビやコトクラゲを発見したのはそのことのついでだった。それは天皇という
文化人の珍種を育てることに熱心な人々をよろこばせたが、それをうるさく不快に思う感覚すら、彼からはもううすれ欠落していた。
 いま、ぬるでの羽状複葉の美しい緑を蚕食している毛虫をよく観察しようと、裕仁は静かに顔を近づけた。年齢に似合わぬ鋭い聴覚を保っている彼は、耳を傾けてこの虫が葉を噛る、あのシャリシャリという微かな音を娯しもうとしたのだった。
 しかし、その瞬間、裕仁の朝の人間的な時間は早くも終りを告げた。松林の上で、敏感な鳥が先ず鋭い警告を発し、続いて鵜たちがグァォとあの独特なのど声を出して仲間同士で注意を促し合った。彼女らの翼の音があちこちでさざ波に似た音になると、それはすぐさま小鳥たちに伝わった。四十雀や椋鳥が巣箱の中で悲鳴をあげ、雀たちは時ならぬつむじ風をくった木の葉のように森の中から舞い上り、砂あび中の雉子たちまでが、それこそ砂埃をあげて飛び立った。
 鳥ならぬ大鳥、人間が作った恰好の悪い鳥の中で最も不恰好なヘリコプターが一台、突然皇居の森を目ざして降りて来たのだ。しかもそれは、ほかならぬ裕仁が散策中の吹上御苑の道のすぐ近くにおよそ他人の気持など察したこともない轟々たる旋風と共に着陸した。
驚いて急に顔を上げた拍子に、はずれそうになった眼鏡を押えて裕仁がそちらを見た時、その小型の空の乗物は、濃紺の卵型のキャビンを支える橇の形をした脚を草原の中に入れたところだった。あたりの草木を風圧でおびやかしていた銀色のローターは次第にその回転をゆるめ、間もなく静止し、それと殆んど同時に、キャビンの風防ガラスの扉が開いて二人の男が降りて来た。
 空の上から裕仁の動静をすでによく観察していたものか、二人は何の迷いもなく真直に大股に彼の方へ向って歩いて来た。
 淡いオリーブ色の、軍服に似た洒落たデザインの同じ服を着て白手袋に短かい剣をつけた男たちは、一人は若者だったが、裕仁はどこかでその制服様(よう)の服装を見た覚えがあり、
同時に中年の男のしゃくれた長い顔と神経質そうな大きな目も、初対面ではないような気がした。
 二人が裕仁の数歩前へ来て立ち止り、うす緑色のヘルメットのひさしに手をあてて、揃って挙手の礼をした時、裕仁は習慣的に軽く会釈した。しかし、戦争中訪日して自分に謁見を求めたナチスの幹部を砂糖水で割ったような感じのするこの男たちが何者なのか、まだ全く判らぬうちに、彼らはつかつかと近寄って、左右から裕仁を護衛ように立ち、しゃくれた顔の男が、

 「陛下、大変な危険が迫って居ります。すぐお逃げにならないと、お命が危いのです。」

 と言ったのだ。それはかつて裕仁が一度も出会ったことのない激しい調子であり、侍従や女官の介在がないだけにむきつけな荒々しい危機感にみちていた。その男自身が真近に迫った危機の予感に打ちふるえ、真剣に裕仁の身を案じているようすがじかに伝わって来たのだ。

 「赤軍派が、すぐそこの霜錦亭から、ライフルで陛下を狙って居ります・・・・・」

 しゃくれ顔は悲鳴をあげるように言った。

 「事情は後で説明いたします。すぐヘリにお乗り下さい。すぐ!」

 機体が着陸した途端の軽い衝撃を身に感じるまで、三島は自分が天皇に向ってそのようなことを口にしようとは思っていなかったのであった。
 もともと自分達が文字通り楯となって天皇の体を凶悪な銃口から護り、霜錦亭からライフル銃を探し出して、不注意で尊大な皇宮警察や、警視庁、又、疲れて役人風な町の警官の注意を促すのが目的だったのだ。
 彼自身が仁王立ちになって天皇をかばい、脚か手に、とにかく命に別条ないところに凶弾の一発も受けて血を流し、若い信也がその危急を救けるというきわめて劇的な場面が、もともと演出好きな三島の胸を掠めなかったとは言えぬが、しかしそれは彼のどこか臆病そうな大きな目の光を複雑にしただけで、少なくとも表面上、三島は自分の行動が芝居じみるのを嫌ったのだ。
 けれども、若くして文名高く、多くの人の面前で数かぎりなく講演し、テレビ、ラジオ、又舞台や映画にも出演し、国の内外のありとあらゆる有名人や貴人に面識のある三島も、さすがに初めて入った皇居の奥庭で、全く第三者を交えず、自分自身にとって最高の芸術品たるその皇居の長たる裕仁を前にして、極度に緊張したのである。
 それが彼をして殆んどその場に立つまで考えても居なかったことを言わせたのだ。

 「さあ、どうぞこの旭日(きょくじつ)号にお召し下さい。陛下!」

 彼は自分の愛するこの比類ない日本の国で、この上ない尊さをあらわす二人称を口にしたことで心がしびれ、あり得ないことのように思わず絶句した。 ・・・・・

 裕仁が生れ落ちてから今まで、七十年間棲んでいたこの世界は、おそらくハプニングというものの無さでも又希有の場であった。そこではいつも誰かしらが彼の二十四時間を裁断し、人間として必要な時間といわゆる国家のための時間とをごちゃまぜにして押し出す労力を誰かれとない多数の人間に割当てていた。そしてその割当てを受けた侍従や主厨や式部は、恰もその仕事を直接裕仁から命じられたように忠実にうやうやしく行うことで二重に彼の自由を奪うのであった。
 東宮当時、良子(ながこ)女王と結婚した時も、皇太子には初夜の肉体的心理的労苦を与えてはならぬという古式にのっとり、彼女の父の久邇宮邦彦(くにのみやくによし)がすでに自ら性の手ほどきを充分にしておいたので、裕仁は処女のおののきや恥じらいというハプニングすら味わうことが出来なかったほどである。
 かくして一事は万事を規定し、彼は、命令したという形式のもとに、すべて彼の臣下から命じられ押しつけられ、それによって万民が仰ぎみる優雅な威信に満ち、しかも人間的だとジャーナリズムが噂する天皇の生活は滞りなく流れて来たのである。
 何と名付けてよいか判らぬ為に、一まとめにして公務と呼ばれている、あっても無くても大したことはない天皇の仕事、大臣の認証や功労者の叙勲や外国の貴族や使臣との会見、その他あらゆる公共のつまらぬ催物への出席などの間で、裕仁は自分自身の生き方を極小にまで制限されていた。むしろ天皇の最上の美徳は意見を持たぬ点にあったとさえ言える。
 人間らしい最も日常的な欲求として何か食べたいものがある場合でも、それが市井でたやすく手に入るものであっても、すぐさま食膳へのぼらせることなど思いもよらぬ。彼の好きな汁粉の一椀にしても、何人もの口から口へ伝えられ、又幾人もの手から手を経て彼の許へやって来るまでには人間らしい満足とは関係がなくなってしまう場合が多いのだ。
 例えば地方旅行の際など、たまたま美味なものが食膳に出ても、正直にどこそこの何は気に入ったなどと決して言えぬ。何気なくつぶやいた一言すら、忽ち百の拡声器を以ってした如く侍臣から外部の者へ伝わり、褒められなかったものの一切は人々の関心を失い、一旦天皇のお気に召したとなったものはいつでもどこでも裕仁の前へ現れることになるからだ。
 かつて東北地方へ行った時、或る町でうっかり侍従の一人に、

 「今日のうなぎの蒲焼はお美味しかったね」・・・・・

 と言ったばかりに、その次の宿泊地でもその又次でもひどい時は朝昼晩うなぎを出され、うんざりしながらも地元民の好意を無にしないため、気弱な裕仁は必死になって同じ料理の攻撃に堪えたこともあったのだ。
 そうした彼に於ては周知の如く、誕生日は彼個人のものでは
ない厳そかな国家的行事の日であり、かつて皇太子の誕生を国民たちが待ち望んでいるとされた時は良子との性交が何にも増して重要な国家的行為となったのも当然と言えばあまりに当然のことであった。その為裕仁は一時期イムポテンツになやまされたものである。
 こうしたことは、すべて要約するに、天皇が乗っているベルトコンベヤーの上では、次の瞬間に何をするかは、つねに彼以外の人間の関知するところだった・・・・・。
 そういう習慣の上に生活していたからこそ、裕仁はそのしゃくれ顔の男と美しい若者に左右から促された時、

 「ああ、そう・・・・・」

 と、例の痴呆のような一言を口にして、やすやすとその濃紺のヘリのキャビンに乗り込んでしまったのである。
 むろん赤軍派という過激学生が日本刀をふりかざして飛行機を乗取り、北鮮へ飛んだニュースは裕仁も承知して居た。彼らがその後も種々の凶行を企んで居り、安保決戦と左翼が称するこの六月を期して、何をするか判らぬという噂もきいて居たので、この時のしゃくれ顔の言葉は甚だ現実味を帯びて聞こえたのであった。
 もっとも三島自身にとっては赤軍派などという言葉がどうしてそこで飛出したのか判然としなかったのであるが、頭のてっぺんから足の爪先までモダンめかしたダンディズムで装っているにも拘らず、根っからの国粋主義者であり、理屈ぬきの愛国者である彼の意識に凶悪という語と赤軍派という語が単純に同義語として打ちこまれていて、それがこうした緊張時に突然口を衝いたとでもいうところだろう。
 時ならぬヘリの爆音に気付いて、内舎人(うどねり)らが慌てて駈けつけた時、機はすでに地上を三メートルほど離れていた。風圧になぎ倒された彼らが色を失って悲鳴をあげた時、皇宮警察のその朝の当直は林の間の道を駈けつけて来る途中だった。

 「赤軍派だ!」

 同僚の一足後を駈けつけていた警官が叫んだ。

 「やつら、空から来たんだ!」

 その言葉を終えた時、ようやく草原へ出た二人は、腰を抜かしている内舎人(うどねり)を助け起すこともせず、ただあっけにとられて、すでに二十メートルも上って、逆光に漆黒のシルエットとなった旭日号を見上げた。

 「ゆうべの当直が、もう少し早く怪電話の話をして呉れれば、こんなことにはならなかったんだ」

 後から駈けて来た方の警官が、やがて地団駄ふんで言った。
 つい先ほどになって、昨夜いたずら電話があったときいた彼はそれでももしやと霜錦亭を調べに行き、怪しいものが見つからぬのにホッとした時、ヘリの爆音を聞いたのであった。(つづく)  
                







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posted by 下等遊民 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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